らにぃの論文集

らにぃの論文集です。

共謀罪の議論に、なぜ反対か。

共謀罪に賛成している議論、反対している論者にまともな意見を見たことがない。


1970年台後半から世界的な新保守主義ブームに伴い(これは財政赤字のためだが)、大きな政府は小さな政府へと転換した。


これは政府の仕事を減らすという方針であるが、さて共謀罪という政府の仕事を大幅に増やすような政策は筋が通るであろうか?


まあ単純に言ってしまえば、共謀罪を取り締まれるほどの人的・金銭的予算が今の日本国政府にあるのかということ。


反対派が真に議論するべきは、共謀罪を取り締まれるだけの警官・自衛官(に準ずるもの)の確保や、それに伴う税率増などを訴えるべきであり、法律案の内容を審議していては埒があかない。


ちなみに同様の事例として軽減税率がある。これは既に他国で実証済みのため、(福祉政策に賛成的な立場であるはずの)財政学者からも軽減税率は反対されている。


その理由は軽減税率を実施するために必要な国税調査官を増やさざるをえないからだ。

税率の平等を図るために税金を更に集めなければならないという矛盾を発生させてしまっている。


話を戻すと、共謀罪のリソースはどこから生じるかである。


裏を返せば、共謀罪が可決されても予算がないなら逮捕者は出ないよね(テロは防げませんよね)、それだけ。言いたかったのはこの一文に尽きる。


どうも日本人は法律が勝手に動くと思いがちだが、法律とそれを使う人がいて始めて執行されるものである。


もう少し共謀罪の反対派はまともな議論をした方がいいように思える。

August最新作、千桃について。

※5/31、18時頃に空の軌跡について補足。


前回の記事はスマホからなんで編集をミスったのは見過ごしてほしいなあ……。


タイトル書いてて思ったこと、夜明けなについて後半を書いていないなあ、なんて。まあ誰も読んでないからいいんですけどね。


タイトル通り。

期待されていた割には、「ユースティアに遠く及ばない」といったコメントがちらほら。

いや、それはその通りかも知れないけど(事実、シナリオゲーマーにとっては憂鬱でも何でない今作は面白みに欠けていることは簡単に指摘できる)。


さて、『

千の刃濤、桃花染の皇姫

』は、Augustの位置付けにおいてどのような意義を持つだろうか。

簡潔に行きます。


本作品は、August作品を焼き直したもので、特に中身は前作あるいは夜明けな以降の作品とまるで変わらない。実際に、歪んだ親子の形は夜明けな以降大図書館まで継続され、今作に至っては小此木と主人公の関係がこれにあたる(親子ではないが、主従の歪んだ関係としてここでは同一視をしている)。

次。未来は自分たちが掴むものという考え方。空の軌跡における輝く環<オーリ・オール>の支配から抜け出そうとするセレスト・D・アウスレーゼたちの活躍だと思ってくれればいいです。これは①トランスポーターを巡る達也=フィーナ、リース会談。②眷属ではなく自分を好きでいてくれる相手といたい瑛理華。③羊飼いによる誘導は強制であってはならず、人間の意思を尊重するべきだという姿勢。

これらはとくに本作においても同じ傾向が出ている。


シナリオゲーマーはシナリオを追うだけでAugust作品との関係性から本作を読もうとせず、August信者はただ漫然と消費しているだけで実はAugustが同じ主張を題材だけを変えて何度も繰り返していることを考えていないのではないか。


ある種の、エロゲ界における、筆者の責任と読者の責任との問題を読み取れる、そんな気がした作品(とそれを取り巻くレビュー環境)であった。


千桃についてはいくつか考えられるべき点があるので、今後そちらについて検討したい。


別に飯島昇蔵さんのレオ・シュトラウスについての論文をなじっているわけではありませんよ、あしからず。

文系修士は何を読むべきか。〜例の立命館の論文から

題名通り。


文系の生存理由は、名だたる哲学者や言語学者などに譲るとして(仲正昌樹先生の本などを読まれるのがよろしいか)。

ここでは修士の学生諸君が何を読むべきかについて考えていきたいと思う。

「読むべきか」とは、読むのに(修士として)相応しいであるというのではなく、(修士として)当然読んでいるという意味である。

まずは本の紹介から。

社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

ご存知の通り、アメリカでは社会科学における方法論として(学部レベルの)教科書である。当然、原文で読むのが望ましいが、本気で学者を目指したり東大院に在籍していたりしなければそのような努力をしようと思わないでしょう(無慈悲)。


本命はこちら。

創造の方法学 (講談社現代新書)

創造の方法学 (講談社現代新書)

1979年に発売されたものだが、今も日本の学会(とりわけ社会科学界隈)では強い影響力を持つとされる1冊。
日本の学者にとっては非常に耳の痛い話が収録されていることも関連し、高根先生は日本の学会ほとんどから干されていく(最期は無惨な死)。そのため、誰も表ではこの本を紹介しない。したがって、修士課程の学生の研究についてはお粗末なものになりがち。
この本が書かれた時代というのは、(本当かどうかは知らないが)、マキャヴェリの『君主論』の中で'stato'が何回出てくるかをカウントすることが研究業績になった時代ともされる。
本書は半分が筆者のアメリカ日記みたいなものであるので大変読みやすいものとなっている。修士程度の実力であれば読むのに苦労しないだろう。

続いてはこちら。

社会学研究法 リアリティの捉え方 (有斐閣アルマ)

社会学研究法 リアリティの捉え方 (有斐閣アルマ)

高根先生の本を表立って再録をしてはいないが、『創造の方法学』で紹介された研究の方法論をとりわけ専門的な見地から第一線の学者の方々が紹介する専門書である。
アルマシリーズの最高難易度だが修士の実力で読み解けるレベルでしょう(所詮は教科書なので深く考えなくとも良い)。本書は三部構成となっており、前半は人文寄りの研究手法、間に実地研究、後半は統計科学を用いた現代の主流の方法論が紹介されている。
難しいことが書かれていると思ったら、高根先生の本に戻ればわかりやすく説明されているので、二冊を隣に並べて勉強されるのがよろしいかと。

最後はこちら。

原因を推論する -- 政治分析方法論のすゝめ

原因を推論する -- 政治分析方法論のすゝめ

歴史から理論を創造する方法: 社会科学と歴史学を統合する

歴史から理論を創造する方法: 社会科学と歴史学を統合する

つい最近の著書になるが、保城先生の本は高根先生の本を再録している。
文系の研究の中でも「なぜ?」という問題提起をするものが優れた研究であるという筆者の主張。これは高根先生の本にも書かれている。
社会科学の方法論それ自体から本書の意義を論じるとすれば、非常にお粗末で説明不足な箇所があると酷評せざるを得ない。また方法論については先のアルマシリーズの方が豊富である。

しかしそれを抜きにしても文系の研究がどうであるべきかを論じたのがようやく日の目を浴びれるようになったと喜ぶべきか。あるいは、学者の怠慢な姿勢を非難すべきなのか。

研究者になるにせよ、ならないにせよ修士課程を歩まれたのであれば、もう少し社会をどのように見るかについて、以上の本を参照しながら研究をされるのが望ましいのではないだろうか。

剣士の装備考察

鎧について。

THP100%カルスが主流の昨今。

ただし、これはチケット品のみ。

職業鎧だと通常はLV5までしか付かない。


命中ビルドではなく、耐久ビルドはHP効率LV1 DXが付与可能な通常鎧も視野に入る。ただし首に攻撃速度LV3をつけない場合は、鎧に攻撃速度LV3を持ってくるのはあり。

防御のタレン、スキルのアズラエル


ただどちらにしても、HP効率LV1 DXを付与する場合は暁が望ましい。仮にTダメDX武器にも暁を使用するなら、2転の必要性が出てくる。まあレポートクエで4転850なんてものはすぐだけど。


タレンかアズラエルのどちらがよいだろうか?

『PRIMAL×HEARTS2』論評

 『PRIMAL×HEARTS2』が10月30日に無事発売されて何よりです。関係各位には祝福のコメントを述べさせていただきたいところです。


 現段階での、共通ルートにおける評価を以って祝辞の言葉と代えさせていただきます。


 以下、自己責任で。

単なる自己満足のオナニー文、トイレの、チラシの裏の落書き程度だと流していただければ。




 本作品は、選挙論をモチーフにしたイチャラブな擬似的抜きゲーだ。PRIMAL×HEARTS2』の名の示す通り、恋はどこから始まるのかを描くことが前作同様テーマだったように思われる。好評であった前作よりも評価が下がるのではないだろうかという憶測もあったが、現段階では未確定だ。

 そこで今回は、共通ルートで表現された現代政治の包摂を試みを解釈する。まず留意しておきたいのが、私自身が持つプラハ2(以外、PRIMAL×HEARTS2』をプラハ2と略記する)のイメージは、現実的な二大政党制ではなく、むしろ多極共存デモクラシーに近いものだと理解している。即ち、行政府は単独ではなく政治エリートの協議によって担われているという事実への着目だ。

 今作の開始時点は、部活の組織票によって固定された選挙をどのように解決するか、という問題を解決するところから始まる。これは派閥政治に近いかもしれない。その既得権益層を解体するのが、アウトサイダーたる主人公だ(このように書くと、吉田先生の「ポピュリズム論」に近いが、私の意図するべきところはそこではない)。結果として、その試みは成功される。ここにおける論点は2つだ。


 ①属するものによって意見を固定されえなくなったとき

 ②解体のされ方


 私にとってより興味深いテーマが前者だ。所属する部活によって自身の票が固定されえなくなったとき、ある意味で本当に自身の意思で選好の表明が可能になったときである。これは主人公あるいは生徒会サイドが最も望んでいた、一種の理想論だ。

 これはジョック・ヤングの社会的紐帯の崩壊から、ウルリッヒ・ベックのリスク論までを大まかに捉えたものといってよい(このような場合、前作で見られた水着や体育着といった理由で、首尾一貫しないころころと変容可能な意思を持つ、ステレオタイプな大衆が産み出されることを警鐘する)。

 ただし、先ほども述べたが政治エリートが主体的に解決するイメージならばなんら問題ない。むしろ私が評価するべきところは、このような再帰的近代化を迎える一定の流れを、エロゲーの中で再現されたところにある。つまり、自身の選好は社会的階層や派閥に固定されるだけでなくグローバル化を迎えた今日において常に変容可能な選好であること、また常にあらゆるものが再検討性に晒されていること、その点だ。

 後者の論点だが、派閥の解体のされ方は大まかに二つある。小泉型ポピュリズムと、プーチンポピュリズムだ。前者が、共同体内部に敵(のレッテルを貼ること)を産み出し、今までの派閥ではない異なる亀裂によってグループの再編成が行われる。しかし後者は、共同体外部に敵を生み出すことで、むしろ共同体そのものの団結力を生み出す。そのようにして部活の対立を宥めたことはプレイ済みの諸兄らには自明だと思われる。