August最新作、千桃について。
※5/31、18時頃に空の軌跡について補足。
前回の記事はスマホからなんで編集をミスったのは見過ごしてほしいなあ……。
タイトル書いてて思ったこと、夜明けなについて後半を書いていないなあ、なんて。まあ誰も読んでないからいいんですけどね。
タイトル通り。
期待されていた割には、「ユースティアに遠く及ばない」といったコメントがちらほら。
いや、それはその通りかも知れないけど(事実、シナリオゲーマーにとっては憂鬱でも何でない今作は面白みに欠けていることは簡単に指摘できる)。
さて、『
千の刃濤、桃花染の皇姫
』は、Augustの位置付けにおいてどのような意義を持つだろうか。
簡潔に行きます。
本作品は、August作品を焼き直したもので、特に中身は前作あるいは夜明けな以降の作品とまるで変わらない。実際に、歪んだ親子の形は夜明けな以降大図書館まで継続され、今作に至っては小此木と主人公の関係がこれにあたる(親子ではないが、主従の歪んだ関係としてここでは同一視をしている)。
次。未来は自分たちが掴むものという考え方。空の軌跡における輝く環<オーリ・オール>の支配から抜け出そうとするセレスト・D・アウスレーゼたちの活躍だと思ってくれればいいです。これは①トランスポーターを巡る達也=フィーナ、リース会談。②眷属ではなく自分を好きでいてくれる相手といたい瑛理華。③羊飼いによる誘導は強制であってはならず、人間の意思を尊重するべきだという姿勢。
これらはとくに本作においても同じ傾向が出ている。
シナリオゲーマーはシナリオを追うだけでAugust作品との関係性から本作を読もうとせず、August信者はただ漫然と消費しているだけで実はAugustが同じ主張を題材だけを変えて何度も繰り返していることを考えていないのではないか。
ある種の、エロゲ界における、筆者の責任と読者の責任との問題を読み取れる、そんな気がした作品(とそれを取り巻くレビュー環境)であった。
千桃についてはいくつか考えられるべき点があるので、今後そちらについて検討したい。
※
別に飯島昇蔵さんのレオ・シュトラウスについての論文をなじっているわけではありませんよ、あしからず。