再説:『夜明け前より瑠璃色な』(前半)
※ネタバレ全開
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ゲームの正当な評価は具体的数値だけにあるべきか。
この命題はいかなるときでも付きまとうものだ。必ず数値化することによって序列が確立される。
その(特定の作品たる)テキストを神聖化(=聖書化)する信者にとってはその序列すら耳の痛い話だ。とりわけ、その評価をめぐり正当ではないと非難が散見される。
しかし私の試みは、ここにはない。私の試みは評価ではなく、そのテキストがどのように実際に表象されているかを解釈を為すことにある。
以下、本題へ。
(概略)
August『夜明け前より瑠璃色な』についての詳細なレビューや感想、考察はすでに出回っている。ここでは作品そのものに対する評価を覆すことをしない。
今回の解釈の対象となるのは、trueルート「夜明け前より瑠璃色な」より。多くの方々にとっては名場面かもしれない、達也=フィーナvsリース対談だ。
(序論)
物見の丘公園の塔は過去の大戦における兵器として使われた、大量移動装置だった。
この場面の素晴らしさは技術と人間がどう向き合うべきかを真正面から扱う議論を行っていると同時に、それだけにとどめることのできない議論を扱うところにある。
見かけの上では、マルティン・ハイデガー『技術への問い』を再表出させたものだ。
ただし、ハイデガーの技術論と当該作品の議論の質が異なるため同一の認識をすることは大きな間違いだ。
さて、見かけの上では『技術論』。ここでは一体何が語られているのだろうか。
ここで議論をしているのは誰か、というメタ議論の位置が提示されるべきだ。
(言わずもがな)フィーナ、達也、リースの三人だ。
ここではフィーナ=達也がリースに対して呼びかけている。
2対1の構図と結果論だけで注目するならば、多数決原理を比喩しているのではないだろうか。またここで重要なのはリースの意思(選好)を変容させたという事実だ。
少なからず、選好の変容を予定するのは熟議民主主義のお家芸だ。
しかし、単にこの構図をシンプルに民主主義の理想的モデルと解釈するだけでは足りない。
(本論)
移動装置の存続を手続き的に認めたリースが、もし扱いを間違えるときは破壊すると述べる。
ここで諸兄姉は疑問に思わなかったのだろうか。なぜフィーナと達也がこの提言を承認したのかを。
ここで重要なのはメタ議論の構図だ。2:1のとき、過半数を無視し少数派を擁護する原則を比喩したものだ。
つまり、過半数の人間が少数の人間の権利を侵害したときに正当な権利として認められる自由主義の原則、すなわち立憲主義がここに確立(暗喩)されている。
まず確認されるべきは、
- 技術への問い
- 立憲民主主義(多数決原理→熟議民主主義)
この2点だ。
しかしながら、本当に『夜明け前より瑠璃色な』で述べられていることはこのことであるか。私はこの2点でさえもフェイクではないかと疑う。
ここでのフェイクは、議論として十分に吟味の余地を残しつつも、正当か虚偽かではなく本当に述べたかったものを隠すために用いられたという意味で。
(後半)へ。