『PRIMAL×HEARTS2』論評
『PRIMAL×HEARTS2』が10月30日に無事発売されて何よりです。関係各位には祝福のコメントを述べさせていただきたいところです。
現段階での、共通ルートにおける評価を以って祝辞の言葉と代えさせていただきます。
以下、自己責任で。
単なる自己満足のオナニー文、トイレの、チラシの裏の落書き程度だと流していただければ。
本作品は、選挙論をモチーフにしたイチャラブな擬似的抜きゲーだ。『PRIMAL×HEARTS2』の名の示す通り、恋はどこから始まるのかを描くことが前作同様テーマだったように思われる。好評であった前作よりも評価が下がるのではないだろうかという憶測もあったが、現段階では未確定だ。
そこで今回は、共通ルートで表現された現代政治の包摂を試みを解釈する。まず留意しておきたいのが、私自身が持つプラハ2(以外、『PRIMAL×HEARTS2』をプラハ2と略記する)のイメージは、現実的な二大政党制ではなく、むしろ多極共存デモクラシーに近いものだと理解している。即ち、行政府は単独ではなく政治エリートの協議によって担われているという事実への着目だ。
今作の開始時点は、部活の組織票によって固定された選挙をどのように解決するか、という問題を解決するところから始まる。これは派閥政治に近いかもしれない。その既得権益層を解体するのが、アウトサイダーたる主人公だ(このように書くと、吉田先生の「ポピュリズム論」に近いが、私の意図するべきところはそこではない)。結果として、その試みは成功される。ここにおける論点は2つだ。
①属するものによって意見を固定されえなくなったとき
②解体のされ方
私にとってより興味深いテーマが前者だ。所属する部活によって自身の票が固定されえなくなったとき、ある意味で本当に自身の意思で選好の表明が可能になったときである。これは主人公あるいは生徒会サイドが最も望んでいた、一種の理想論だ。
これはジョック・ヤングの社会的紐帯の崩壊から、ウルリッヒ・ベックのリスク論までを大まかに捉えたものといってよい(このような場合、前作で見られた水着や体育着といった理由で、首尾一貫しないころころと変容可能な意思を持つ、ステレオタイプな大衆が産み出されることを警鐘する)。
ただし、先ほども述べたが政治エリートが主体的に解決するイメージならばなんら問題ない。むしろ私が評価するべきところは、このような再帰的近代化を迎える一定の流れを、エロゲーの中で再現されたところにある。つまり、自身の選好は社会的階層や派閥に固定されるだけでなくグローバル化を迎えた今日において常に変容可能な選好であること、また常にあらゆるものが再検討性に晒されていること、その点だ。
後者の論点だが、派閥の解体のされ方は大まかに二つある。小泉型ポピュリズムと、プーチン型ポピュリズムだ。前者が、共同体内部に敵(のレッテルを貼ること)を産み出し、今までの派閥ではない異なる亀裂によってグループの再編成が行われる。しかし後者は、共同体外部に敵を生み出すことで、むしろ共同体そのものの団結力を生み出す。そのようにして部活の対立を宥めたことはプレイ済みの諸兄らには自明だと思われる。
近況的な報告
ゼミ合宿が終わり、しばらくはその余韻に更けております。
スピノザ『神学・政治論(上)』
植木千可子『平和のための戦争論』
國分功一郎『近代政治哲学』
を昨日までに読了することに至りました。これもひとえに師のお陰でありましょう。
書評や中身の議論を私はするのが好きではありません。それと同様にエロゲのレビューもあまり好ましくはないです。
あらゆる人間の解釈がそこに詰まっている以上、それを批判することにあまり意味を持ちません。
彼または彼女がそこに一体何を描いているかを再解釈するべきの立場に私はいます。
同じロックやルソーを紹介していても、その読み方は人によって異なります。それは人の考え方に基づいて読み方に差異が出てくるからでしょう。その差異を否定して、自分にとって都合のいい解釈だけを取るのは好都合すぎます。
全ての解釈を比較し、自身で再検討する、そのプロセスに価値があると思います。なによりも、そのプロセスの能力が我々には足りていないのではないでしょうか。
そろそろ『よあけな』の続きを書きたいと思います。
1-2.民主主義とは何か。その種類についての考察
さて、前回は民主主義の歴史について提示したつもりだ。
(前回の記事はこちら)
代表制と民主制が折り合いをつけて現在のデモクラシーへつながっていく。
今回は普段我々が民主的あるいは民主主義の例として浮かべるものごとを適宜考察していき、そこからいくつかの理論あるいは主張に収斂する。
パターン1:民主的な決定か?議論
この議論の多くは多くの国民が満足に至っていないことを盾として自らの主張の正当性を保とうとする。
この議論の核となっているものは言わずもがなルソーの一般意思だ。
前回の歴史を把握している人々からすれば、悲劇のギリシア政治へと繋がった直接的の要因だと推察することが容易だ。
ではなぜ現代(あるいは近代以降)で多数派によって政治が決められる(=民主政/制)が再び脚光を浴びることになったか。
これは最大多数の最大幸福、ベンサムの功利主義によって当時のブルジョアの意見を議会に持ち込むことに由来する。
このパターンは民主的な決定を一般意思の如く、全員が(賛否は別として)一致しなければならないと自負することにある(あるいは全て者の関与が必要だ)。
パターン2:民主的な国家論
ソ連や東側の国々と対置して自由主義陣営たる西側が我々こそが民主的な国々だ、という宣伝を行ったことがすでに歴史に埋もれつつある。
旧社会主義国側と自由主義陣営との決定的な違いは、反体制側の言論や表現、活動の自由が認められていることにある。
これを以て、現代では民主的な国の基礎とみなされることがある。
無論、歴史的に見ればリベラリズムの系譜にあるため正確には民主的でない。
この自由は、時を同じくブルジョアが宗教戦争に巻き込まれないために信仰の自由、王族に財産を没収されないために財産権、貴族に自由裁量と競争を認めるために表現・言論の自由が保障されていたのだ。
普段、我々が「民主的」と述べるとき一体どちらを想像するのだろうか。このどちらかが欠けても良いのであるか?
そこで我々の界隈で有名な政治学者ロバート・ダールを。
パターン3:1と2を兼ね備えるもの
我々が理想として浮かべるものを「デモクラシー」、
制度としてパターン1と2を併存するものを「ポリアーキー」として提唱する。
まとめ
パターン1の民主的は、ギリシア由来のデモクラティア。
いわゆる全ての者の関与が必要とされる主張。
貴族やブルジョアに自由裁量が認められるもの。
パターン3の民主的は、自由民主主義思想。
いわゆるソ連と対置して、自由で民主主義たる国々という旗印。
単純に民主主義や民主的と口にするには簡単だが、果たして本当に何を意味しているのかをもう一度検討するべきではないか。
また他者が発言する民主的の意味と自らのそれとの差異に着目して議論し直す必要があるのではないだろうか。
再説:『夜明け前より瑠璃色な』(前半)
※ネタバレ全開
画像の権利はAugust並びに、㈱葉月に帰属します。
ゲームの正当な評価は具体的数値だけにあるべきか。
この命題はいかなるときでも付きまとうものだ。必ず数値化することによって序列が確立される。
その(特定の作品たる)テキストを神聖化(=聖書化)する信者にとってはその序列すら耳の痛い話だ。とりわけ、その評価をめぐり正当ではないと非難が散見される。
しかし私の試みは、ここにはない。私の試みは評価ではなく、そのテキストがどのように実際に表象されているかを解釈を為すことにある。
以下、本題へ。
続きを読む現状報告
『素晴らしき日々』6章終了、あと2〜3エンド残すのみ?
『幻のディストピア』朱莉ルート終了
『パルフェ』手つかず
『恋色マリアージュ』30分だけ。
『ゆきこいめると』嘩音終了、たるひ途中。
『LOVELY×CATION2』吉野谷星音ルートのみ。体感であと半分以下。
他にも積んでありますが放置。
個人的に楽しみなのは『恋色マリアージュ』です。吉川さんというライターは『PLIMAL×HEARTS』で初めて知りましたが、共通ルートや主人公とヒロインの親密度がどのように高まっていくかを丁寧に書いていらっしゃいます。
論文は、民主主義(概論)1-2ポリアーキー議論でもしようかな、と。
あるいは再説『夜明け前より瑠璃色な』か、『Shuffle!』です。どちらもぼくは好きなゲームです。
ではでは✋