らにぃの論文集

らにぃの論文集です。

1-2.民主主義とは何か。その種類についての考察

 さて、前回は民主主義の歴史について提示したつもりだ。

(前回の記事はこちら

代表制と民主制が折り合いをつけて現在のデモクラシーへつながっていく。

 今回は普段我々が民主的あるいは民主主義の例として浮かべるものごとを適宜考察していき、そこからいくつかの理論あるいは主張に収斂する。

 

パターン1:民主的な決定か?議論

 この議論の多くは多くの国民が満足に至っていないことを盾として自らの主張の正当性を保とうとする。

この議論の核となっているものは言わずもがなルソーの一般意思だ。

前回の歴史を把握している人々からすれば、悲劇のギリシア政治へと繋がった直接的の要因だと推察することが容易だ。

 ではなぜ現代(あるいは近代以降)で多数派によって政治が決められる(=民主政/制)が再び脚光を浴びることになったか。

 これは最大多数の最大幸福、ベンサム功利主義によって当時のブルジョアの意見を議会に持ち込むことに由来する。

 このパターンは民主的な決定を一般意思の如く、全員が(賛否は別として)一致しなければならないと自負することにある(あるいは全て者の関与が必要だ)。

 

パターン2:民主的な国家論

 ソ連や東側の国々と対置して自由主義陣営たる西側が我々こそが民主的な国々だ、という宣伝を行ったことがすでに歴史に埋もれつつある。

社会主義国側と自由主義陣営との決定的な違いは、反体制側の言論や表現、活動の自由が認められていることにある。

 これを以て、現代では民主的な国の基礎とみなされることがある。

無論、歴史的に見ればリベラリズム系譜にあるため正確には民主的でない。

 この自由は、時を同じくブルジョア宗教戦争に巻き込まれないために信仰の自由、王族に財産を没収されないために財産権、貴族に自由裁量と競争を認めるために表現・言論の自由が保障されていたのだ。

 

 普段、我々が「民主的」と述べるとき一体どちらを想像するのだろうか。このどちらかが欠けても良いのであるか?

 そこで我々の界隈で有名な政治学者ロバート・ダールを。

パターン3:1と2を兼ね備えるもの

我々が理想として浮かべるものを「デモクラシー」、

制度としてパターン1と2を併存するものを「ポリアーキー」として提唱する。

 

 まとめ

パターン1の民主的は、ギリシア由来のデモクラティア。

いわゆる全ての者の関与が必要とされる主張。

パターン2の民主的は、自由主義に位置する系譜

貴族やブルジョアに自由裁量が認められるもの。

パターン3の民主的は、自由民主主義思想。

いわゆるソ連と対置して、自由で民主主義たる国々という旗印。

 

 単純に民主主義や民主的と口にするには簡単だが、果たして本当に何を意味しているのかをもう一度検討するべきではないか。

また他者が発言する民主的の意味と自らのそれとの差異に着目して議論し直す必要があるのではないだろうか。

再説:『夜明け前より瑠璃色な』(前半)

 ※ネタバレ全開

画像の権利はAugust並びに、㈱葉月に帰属します。

 

 ゲームの正当な評価は具体的数値だけにあるべきか。

この命題はいかなるときでも付きまとうものだ。必ず数値化することによって序列が確立される。

その(特定の作品たる)テキストを神聖化(=聖書化)する信者にとってはその序列すら耳の痛い話だ。とりわけ、その評価をめぐり正当ではないと非難が散見される。

 しかし私の試みは、ここにはない。私の試みは評価ではなく、そのテキストがどのように実際に表象されているかを解釈を為すことにある。

以下、本題へ。

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現状報告

素晴らしき日々』6章終了、あと2〜3エンド残すのみ?

『幻のディストピア』朱莉ルート終了

パルフェ』手つかず

恋色マリアージュ』30分だけ。

『ゆきこいめると』嘩音終了、たるひ途中。

LOVELY×CATION2』吉野谷星音ルートのみ。体感であと半分以下。

他にも積んでありますが放置。

個人的に楽しみなのは『恋色マリアージュ』です。吉川さんというライターは『PLIMAL×HEARTS』で初めて知りましたが、共通ルートや主人公とヒロインの親密度がどのように高まっていくかを丁寧に書いていらっしゃいます。

論文は、民主主義(概論)1-2ポリアーキー議論でもしようかな、と。

あるいは再説『夜明け前より瑠璃色な』か、『Shuffle!』です。どちらもぼくは好きなゲームです。


ではでは✋

コンチェルトノートおわり

 コンチェルトノート終わりました。

感想やレビューは多くのサイトに載っていますので、そちらを参照していただくのが良いかと存じます。


 最後の方、主人公が吊るし上げにされているときに、和奏たちが入ってくるシーンですが既視感がありました。

これは『閃の軌跡Ⅱ』などで見られた手法ですね。主人公がピンチになると大人たちが助けに来るという、あの手法。


 総評としては、次回作の『黄昏のシンセミア』の方が綺麗にまとまっています。今作の方はテーマ性を感じられなかったような気もします。

エロゲ思想1-1 「主人公とは誰か」

 さて、この試みはエロゲそのものを単一にあるいは単純にゲームそのもととして理解あるいは完結されえない試みとして導入する議論だ。

史と謳っている以上は歴史的連続性の中でこそ議論されるべきだが、私の力量では無理な領域だ。

そこでここでは歴史的連続性の一部を取り上げ、それを歴史的に関連づけながら議論していく方向にする。

 願わくば、歴史的連続の体型としての後世に続く誰かがまとめてくれればよい。


 さて議論に移ろう。

【概略】

 ギャルゲ多元化の時代を迎え(いずれ議論されるべき内容なのでここでは割愛するが)、今日においては様々なタイプのゲームが散乱する時代となった。

 かつて抜き目的としたソレと対抗馬たるものとして頭角してきた泣きのソレの時代があった。

時を経て現代におけるカテゴライズは、ハードボイルドやストーリーゲー、シナリオゲーと様々に分岐する。

 そのようなシナリオ的展開のみを基軸としたゲームの分類論は果たしてどこまで有効たるか、を示すのが一つ。もう一つの狙いとして、その決定的な問題提起をもたらすことが私の狙いだ。

【序論】

 私がここで紹介する分類論と問題をここで手短に概略しておこう。

 この問題の核となるのは『Lovely×Cation2』(以下lc2と略記する)(やそれに続く一連のシリーズ)とここでは仮定しておく。

 単なるイチャラブストーリーとして今日の評価がほとんどであり、またその評価の高さは恐るべきものがある。

 しかしながら例の如くここでの試みが何ら先人の評価を覆すものでもなく、その評価とはまた別にこのゲームの評価を別側面から与えることが目的だ、と留意しておきたい。

 【本論】

 普段、諸君らがギャルゲ(あるいは美少女アドベンチャーシミュレーションゲームでもいい)を連想したときにどのようなものを思い浮かべるだろうか。

隣には幼馴染がいて、ある日突然いい許嫁が現れて、などといった王道展開を想像するだろうか。

 そう、例えば『Shuffle!』(以下shuffleと略記する)のようなゲームかもしれない。

ここでは単純に比較を用いて、作品を比べられたい。そこには単純にシミュレーションとアドベンチャー性といったカテゴライズを越えるものがあるとする。

 ここでは議論の確認として、ゲームのスタート時点を確認してもらいたい。『shuffle!』のようなゲームにおいて、日常の連続として存在する今この瞬間に非日常的事態(転校)が発生する。例えば、『夜明けより瑠璃色な』(けよりなと略記)もこれに該当する。

 これに対応して『lc2』では(転校してはいないが)全く新たな環境に置かれたところからスタートする。

 この分類論を本文では、前者を非日常起点型とし、後者を新規一転型と仮定する。

 ただし、『KANON』や『FORTUNE ARTERIAL』のように転校先に幼馴染(あるいは知人)がいるケースはここでは例外として放置させていただく(いずれ分類論の議論が挙がったときに取っておく)。

 私が対比させようと試みるものは、つまり、完全な(『lc2』は完全とは言わないにしても)新規環境に置かれる主人公と、連続性の中で存在する主人公だ。

 これは明白にその後の主人公に対して多くの影響を与えることを説明することが可能だ。

 非日常起点型においては常に主人公と誰かの過去が問題となり、今においてもある種の拘束性を持つ(一例として『けよりな』鷹見沢ルートを参照)。

 反対に新規一転型の場合は常に友情関係の延長上として、この人が好きなのかもしれないという感情を確実なものにし恋愛を成就させる、といったプロセスが明白に描かれる。

この丁寧なプロセスの作り込みは、cationシリーズを経験してみればわかることだ。あるいは『PRIMAL×HEARTS』(phと略記)を連想するのがよい。

 注意深く観察すると、非日常起点型の場合ではゲーム開始時点ですでにヒロインが明確な恋心を抱いていることが(後でも)わかる。

 さて、あまりにも長々と書き続けると議論がなかなか収束しづらいので今回はここまでにする。

【結論】

 人というのは環境の中で生かされている(アリストテレスはポリス的動物と述べた)。その中で我々はある日突然、新たな環境に置かれることは難しい。

もちろんやり直しをしたいとする考えを汲み取ったものとする作品だ、とする見解にも一理はある。

 またそもそも恋愛というのは何であるか。ある人の一生の一部分を取り上げて、ギャルゲーと称するのは正しかったか。

『cation』シリーズの功罪は少なからず、我々の恋愛意識がより確実になるその過程でさえも重要であることを思い起こさせたことが一つ。他の作品と比べ、どこの時点で好きになったかという過去に拘束されない作品であった。

もう一つに我々の生きる世界においては新規一転ではありえない。が、ゲームだからこそできる設定だ。新規一転型と、今まで通り存在していたタイプ(本文では非日常起点型と仮定していたそれ)の明確な分類が可能になったのではないだろうか。


1-1.民主主義とは何か(概論)

twitter.com

 さかのぼること一カ月、上記の発言をした。

この発言の真意と言えば、

  1. 民主主義そのものに対する不信感
  2. 政治が民主的であるべきだとする主張

に対する反駁のつもりだった。

そもそもこの二つの見解はいずれも同一の原因に起因するものだと私は仮定する。それはすなわち、今日の学校教育の成果だ。

このところ、フランス革命、人権宣言ばかりが特徴的に扱われ、アメリカ独立革命(戦争)の教科書で割かれているページが少ない。

フランス革命から連想するのはジャン=ジャック=ルソーで、彼こそがこの問題の黒幕と呼べる。(彼の業績を非難するわけではないと注意しておく)

 さて、話を戻そう。

そもそも政治思想史の起源とはギリシアに由来し、その原因はペロポネソス戦争にある。アテナイがなぜ負けたのかを議論するところから始まったと言ってよい(それ以前から政治はもちろんあったが)。

この時代の都市国家(ポリス)が直接民主制であったことは諸君らもご存じのはずだ。ここで真っ先に敗因として挙げられたのは、過度な民主政治だ。

以降、近代近くまでは民主政/制(=デモクラティア)は最悪の政治体制と呼ばれることになる。これが反転することになるのはルソー、フランス革命期だが。

残念ながら、この2000年代で民主主義は衆愚政治に陥るからという理由で民主主義を愚弄するのはギリシアの人間とまったく変わらない。君は成長していないのか?え、服は着ていないのか?

そこで優秀な人間は王政でもなくまた民主政でもないシステムを作り出した。いわゆる混合政体論だ。

混合政体論自体、アリストテレスに始まり帝政ローマ期に続きアメリカ独立革命まで生存している。

われわれが普段使っている、民主主義(という名前の混合政体)が現在の形として完成するのはアメリカ独立革命期のフェデラリスト・ペーパーによる。

アメリカは自由を確保するために君主制を取り入れずに、ここで最悪の政治体制と愚弄されていたデモクラシーを採用することにした。

その狙いは、派閥の利害をなくすことにある。一部の市民が団結して私的利益によって政治を歪める行為をなくすために、多数派を形成しなければ支配できない仕組みとして採用された。

さらに多数派形成を難しくするために、半数以上の選挙区で過半数を取らなければ多数派になれない代表制をここで取り入れる。

衆愚政治の防波堤として代表制が盛り込まれるのだ。

 

 今日、我々が民主主義と呼ぶ混合政体は複雑なシステムだ。その歴史的背景を抜きにして、安易に民主的とか衆愚政などと語るのは早計である。

それがあの発言の意図で民主主義をもう一度よく見直してもらいたい。それが再帰的近代化論者としての私個人の狙いである。

解釈:『Hyper→Highspeed→Genius』

ういんどみるより。*1

windmill.suki.jp

この作品は私が初めて手にしたergである。

 【概略】

 この作品は、世界長をきめるため三つの学園が統合され、その学園内で能力者たちが争う物語である。現世では能力(ギフト)を持つ守護者(ジーニアス)が一般人よりも良い待遇である。

 【序論】

 『HHG』に関しての感想や評論はすでにいくつかのサイトで挙げられているように、「選択肢を選んでいることをメタ的に表現した」や「ディストピアとは何であるか」といった見解に私も一致する。

この作品を読み解くにあたって、私が感じられたことは政治学概論としての教科書を含有するかもしれない、ということだ。(「かもしれない」という表現は、ういんどみるに対する評価を表現したものである。ここで議論はしないが、何人かのどみらー――:ういんどみる信者――における正統な評価として『はぴねす!』と『HHG』さえ押さえておけばよい、が存在することに由来する。)

つまり、前述の表現は意図して組み込まれていない考慮を示唆するものだ。本文ではメーカーの意図を超えて結果として表現されたもの(事実)を解釈することにする。

【本論】

 まずこの作品を解釈するにあたって、アロウを用いられたい。

アロウの一般可能性定理において、彼が設定した民主主義の条件の中に「公理四 非独裁制」が存在する。端的に略記するならば、一人の選好序列が社会的順序に影響を与えてはならないことを意味する。

 さてここで問われるのは、

  1. 主人公があるヒロインを選択した際に世界長へと導く行為は果たして民主的たりえるのか。
  2. あるいは選択肢によって選ばれる世界長が異なることについて。

(注:少なくともは私は『HHG』を非民主的とみなすことはしない)

 ここで確認されるべきなのは、世界長の選ばれ方だ。

各ヒロインごとに選挙システムが厳密に異なることは注目に値する。

個人の選好(=選択肢)と選ばれ方(=選挙方法)によって結末が異なることを示唆するものではなかろうか。

【結論】

 本作品をきめ方に絞って、解釈したわけであるが、非常に「きめる」ということは難しいことである。

 

うまくまとめることができなかったので、そのうち再説するかもしれない。

 

*1:以下、本文では『HHG』と略記する。